しろうのブログ

フィクションの話

『ケンガイ』の白川さんと『エレファント・マン』との乖離

ケンガイ 1 (ビッグコミックス)

社会性を失った映画オタク白川さんの話

『ケンガイ』という漫画は映画を見ること以外、衣食住も人間関係も恋愛も全く興味を示さない女性・白川さんと、そんな白川さんのことが好きになってしまった普通のイケメン・伊賀くんが仲良くなれそうでなれない、難攻不落の白川さんと伊賀くんの苦難を描いた物語です。

 

この白川さんというキャラクターとてもクセが強く、滅多なことでは他人と馴れ合わず極端に無愛想な態度をとります。映画以外に本当に興味を示さず、化粧っ気もなく髪もパサパサでバイト先のチャラ目な同僚たちからも恋愛対象「ケンガイ」と蔑まれ、飲み会にも全く参加しないので完全に浮いてしまっています。白川さん本人もそんな周囲の目に気づいていながら、波風立てず安穏の日々を過ごすことを望み飄々と生きています。

 

彼女は他人を、特に異性を全く信用しない人間で、イケメンの伊賀くんから明らかな好意を示されても彼女は「これは何かの罰ゲームでやらされているのか?」などと彼の気持ちを一蹴します。「自分みたいな残念な人間と付き合うより、ふつーの可愛い人と付き合えばいい」などと、取りつく島もないほど伊賀くんを突き放す。

 

彼女がそういう性格になった背景には実家の家庭環境があるらしく、貧困かつ複雑な、愛あるとは言い難い家庭で育ったことで、他人からの好意に必要以上に懐疑的なってしまうそうで、普通に善良な人生を送ってきたイケメンの伊賀くんとは真逆の精神を培ってきた人間なのです。

 

この彼女の生い立ちについては物語の中でははっきりとは描写されていないのですが、「十分な愛を受けることなく育ってきた人間」という白石さんの生い立ちこそが、裕福に育ってきた伊賀くんが彼女と接するうえで最も苦労する障害の一つとなっているように思えます。

 

例えば伊賀くんは、バイトの同僚の前で自分を出さず問題事を避けようとする白川さんの態度に反発し、あえて皆の目の前で白川さんをデートに誘ったりするのですが、それがまさに白川さんの逆鱗に触れてしまう。伊賀くんはただ白川さんに「ケンガイ」の人間としてではなく、普通の女性として皆と同じように生きてほしいと願っています。一方白川さんは周囲の人間に自分が蔑まれているのを知って影を生きてきたのに、光の中を生きる伊賀くんにむりやり引きずり出されて、しかも恋愛という最も面倒くさい舞台に立たされてしまったことに激怒します。

 

このような恵まれず影の人生を生きてきた人間と、恵まれた明るい人生を歩んできた人間の共存、という側面がこの物語にはあるように思います。

 

白川さんと『エレファント・マン

あるとき、白石さんがある映画の一場面について次のような感想を述べているのを、伊賀くんが盗み聞きします。

 

「あのシーンで感動しない奴を信用しない」

 

物語終盤でこの映画がデビッド・リンチの『エレファント・マン』であることがわかります。

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『エレファントマン』は実在した人物をもとに作られた映画で、病気でまるで象のように変形した奇形の体を持つ男の物語です。白石さんが言及しているシーンとは、エレファントマンが彼の主治医の家を訪れた際、主治医の奥さんが彼を見て恐怖することなく優しく会釈してくれたことに対し、

 

「ただ感激したんです。こんなに美しい女性に、優しく接してもらったことがなくて」

 

と答える場面を指しています。
このシーン私も好きというか、あまりこの映画自体は好きではないんですがとても感動してめちゃくちゃ泣いてしまったところなんです。

 

エレファントマンはその肉体のせいで生まれた時から愛を知らず見世物小屋に売り飛ばされ、不遇の人生を送ってきた人間なのですが、その心はそんな環境の中でも曲がることなく非常に穏やかで優しく、そんな彼が人生で初めての幸福をしみじみ味わっているこのシーンに、私はどうにも感動してしまったのです。

 

『エレファントマン』への感想と白川さんの態度の乖離

さて白川さんは『エレファントマン』の「このシーンに感動しない奴を信用しない」と述べていましたが、私は彼女に信用される側の人間なのでしょうか。

 

物語後半で伊賀くんも白川さんに勧められて『エレファントマン』を見るのですが、彼女が何故そのシーンで感動したのかがわからず伊賀くんが尋ねると、彼女は「仲間がいると思った」と答えました。

 

彼女はエレファントマンと自分に似た要素を感じ取った、ということになります。

 

たしかに白川さんとエレファントマンは、ともに孤独で愛のない人生を送ってきたという点で同じところがあると言えます。しかし問題のシーンのエレファントマンのセリフは、愛のない人生にあった彼が、夫人の言葉によって救い出される、彼にとっての幸福のシーンです。

 

エレファントマンは不遇な人生にあってもとても優しい人間であって、かつ他人から愛されることを望んでいました。一方白川さんは他人と馴れ合わず愛想もなく、伊賀くんからの好意も疑ってかかりはねのけてしまっています。それは本心から恋愛ごとや他人からの愛情を必要としていないかのような、およそ強がりには見えない真実味があります。というか本当にそう思っているように思えるのです。

 

これについては白川さんも「自分が彼と同じと思うのもおこがましいけど」と付け足していますが、やはり『エレファントマン』のあのシーンに「仲間」という感想抱く人間が、日常生活でそれほどに他人を避けて愛情を拒むというのは、精神にズレがあるように感じてしまいます。

 

フィクションと現実の区別がつきすぎてしまう人々

しかしこの白川さんの精神のズレ、映画への感想と日常生活のギャップというのも、なんとなくわかる気がします。

 

それは現実においてほとんど恋愛に興味がない・あるいは諦めている人間がアイドルやアニメにおいてその心の枷を外し躊躇うことなく愛を叫ぶさまにも似ているように思うのです。私が現実で女性と全く喋っておらず恋愛興味ない感じに生きているのに、少女漫画をめっちゃ読んでいるのと同じなのです。

 

現実とフィクションがあまりにもはっきりと分かれすぎて、現実での精神とフィクションに触れる際の精神が完全に別物になっていて、私に限って言えば現実ではニヒルぶって斜に構えがちで、善人に対して悪口しか言えない糞野郎なのですが、漫画を読むとなると善人を愛し素直な気持ちで正義を受け入れ、感動しています。

 

この、フィクションに触れすぎたせいで生まれた精神の乖離というか、日常生活で出ない素の感情がフィクションに触れる時だけ出てくるオタクのダメなアレが、白川さんにもあるのではなかろうかと思うのです。白川さんもなんだかんだで人から愛されることを悪く思っていないのではないかと、それが証拠に終盤では伊賀くんのことを少しずつ受け入れるようになるのです。

 

『ケンガイ』は難攻不落な孤高の映画オタクをいかに攻略できるか?とか、高圧的な女性にバッサリ拒絶され傲慢な精神を抉り出されるマゾな快感とかそんな楽しみ方もできるのですが、私はオタクになりすぎた人間が行き着く煉獄を感じることこそが、この漫画の面白さなんじゃないかなぁと思っています。

 

私のこの考え方が白川さんにとって正しいものであったら、私は彼女から信頼を勝ち取ることができるかもしれません。もし外れていたら間違いなく嫌われてしまうでしょう。それ以前に、こんなめんどくさく回りくどい考え方をしている時点で嫌われてしまうかもしれません。

私も美しい人に優しく接してもらいたく思います。