『KOKO BE GOOD』という漫画
「あなたは良い人ですか」と聞かれて自信を持って「はい」と答えられる人がどれだけいるのか、「はい」と答えられない人もけっこういるんじゃなかろうかと、そんな感じの話です。
『KOKO BE GOOD』というアメリカンコミックを読みました。
邦題をつけるなら『ココ、しっかりしなさい!』って感じでしょうか。
この漫画の主人公Kokoは悪い子です。
働き始めてもすぐに職場を荒らしてクビになってしまう。ホームレス同然の暮らしをしているところを親切心で部屋を貸してくれた女性に対して、その人の商売道具を盗んで悪用し金を稼ぐ、恩をあだで返す。真面目に生きる人たちを馬鹿にして生きている、すさまじい不良少女です。実用的でまじめな社会・人間に愚痴を垂れ、悪く生きることにすら退屈しています。
そんな彼女がある日、突然「良い人間になる」ことを決意します。
退屈な日々を打開するため、人間として次のステップに踏み込むために、善良で実用的で価値のある行動をとる、興味本位で、良い人間になる決意をします。自分が善良で実用的な行為を行えば、その辺の人には到底実現できないような素晴らしい結果を生み出すことができると根拠なく豪語し、善良で社会のためになる行動を意識的に選択しながら生きていくようになります。
この辺の心境の変化について、Kokoが何故善良になろうと決意したのか、そのモチベーションはどこから生まれているのかはよくわからないのですが、その後の彼女の行動の変化、その本気っぷりは目を見張るものがあります。
途上国向けのチャリティーに応募する。
老人介護ボランティアに参加する。
真面目にバイトまでするようになる。
ラヂオも教育系のありがたい番組だけを聞く。
これらの彼女の努力は善良と呼ぶに値する、以前の彼女に比べれば社会的価値のある行動です。それまでの彼女の素行を考えれば天地がひっくり返ったような大躍進と言えます。
しかし、これらの行為はあくまで一般的な人間に達成できるレベルの善良であって、とりわけ特別な要素があるわけではありません。彼女自身も、それらの善良活動に苦痛こそ感じるものの大した満足感も達成感も得られないまま、ただただ心身を削り働き続けます。
そしてKokoの努力は次第に空回りし始めます。
どれだけやっても善良な行為を蔑む心が消えず、苛立ちばかりが募るKokoは、自分の中のエゴや執着を取り払うために自分の持ち物すべてを路上で売り、そのお金をチャリティーに募金しようと計画します。セールは格安の値段設定によってまずまずの売れ行きを見せるのですが、そこにかつてKokoが商売道具を盗んで裏切った知人Kateがやってきて、彼女の過去の悪行を暴露されてしまいます。
KateはKokoが最低な人間だったことは知っていますが、Kokoが今良い人間になろうと努力していることについては何も知りません。チャリティーなどと言って詐欺まがいのことをしているに違いないと踏んだKateは、彼女の善行を疑いあざけり、大声で詐欺だと言いふらします。
自分の精一杯の善行を馬鹿にされたKokoは怒り、やけになって残った品物をその辺に人にタダで振舞ってしまい、全ての家具を失ってしまいます。虚無感と喪失感の中で家に帰ったKokoの元に、チャリティー募金したアフリカの子供から感謝の手紙が届くのですが、Kokoはそれを見ても喜び笑うこともなく、静かに泣きます。
彼女は良い人間になることに、完全に失敗します。
良い人でいるのはとてもしんどい
この漫画もう一人Jonっていう男の主人公がいるんですが、そいつもまた自分の本来の生き方を変えて真面目で現実的な「良い人」としての生き方を選んで、努力の末に失敗してしまいます。
Kokoについてももう一人の方についても最終的には救いのある形で物語が完結しているのですが、どちらにしても「自分を曲げて良い人になろうと努力しても、そう簡単には変われない」というのがこの物語の結論となっています。
Kokoは「If being good is supposed to be right, is it worth trying to be something you’re not? Just because it’s right?」と述べ「正しいからと言って、自分と全く別のものになるため努力する必要があるのか」と疑問に思っています。
良い人でない人間が良い人であろうとするのは、とてもしんどいことです。
生まれついて完全に善良である人間なんて、おそらくほとんどいません。そしてそれ以外の多くの人々は、善良であるために何かしらの努力をしているものだと思うのです。自分のエゴを抑えて生きることもその一つです。なぜ人々はそうまでして善良であろうとするのか、そこにはその労力・犠牲に見合った利益があるのだろうか。善良な人間をつまらないと感じているKokoにとって、そういった労力はまったく意味不明なモノに見えていたのでしょう。それが却って日々に退屈し切っていた彼女の興味を誘ったのかもしれません。
善良であるためには、エゴを抑える努力が必要です。
もしその人が生まれもって善良ではない嫌な性質を持っていたなら、「惡」とされる要素をたくさん備えていたとしたら、普通の人よりもずっと努力しないと、より多くのエゴを抑制しなければ善良にはなれません。
これは念能力で言ったら、強化系が得意であるはずのカストロが相性の悪い具現化系の能力を極めようとしたような、ヒソカのいうところの「メモリの無駄遣い」にあたるんじゃないかなと思うんです。向いていないものになろうとすることは、本当に本人のためになるのかと
たくさんのエゴを抑えた末に善良な行為をなしたとしても、それによって真の満足感や達成感が得られるようには思えません。しんどいだけかもしれないし、本人が苦しんでまで善良な行為をし社会に適合する必要があるのか。Kokoの例を見ると、あまりそうは思えないです。
世の中に悪人というのはあまりいないとは思いますが、それでも多くの人は年を重ねるごとに嫌な思いを積み上げたりいい思い出で相殺したりして、善良と悪との間をさまようものだと思います。
嫌な感情ばかりが積み上がって善良でない方向に傾いてしまっている自分にとって、善良であることを推奨する社会はなかなかに生き辛いもので、それだけにこの漫画の最後が、善良になれない人間にとって救いのある結末になっていて、とてもいいものを読んだなという気持ちになりました。