しろうのブログ

フィクションの話

『女の子が死ぬ話』:私の無責任な後味

女の子が死ぬ話 (アクションコミックス(月刊アクション))

柳本光晴先生の『女の子が死ぬ話』は、病弱な薄幸の美少女が高校進学と同時に余命宣告を受けながらも友人にそのことを隠し続け、弱っていく姿を誰にも見られないよう、綺麗な女の子として皆の思い出の中で生きていけるよう、一人で死ぬ話です。

 

 

 

メインの登場人物はヒロインの瀬戸遥、幼馴染の和哉、クラスメイトの千穂の三人で、物語は遥が病院で余命半年の宣告を受けるシーンから始まります。遥はそのことを周囲の人間には打ち明けず、普通の女子高校生として学園生活を過ごします。病気のために真っ白になった髪や見た目の美しさから周囲の興味の対象であり続けた彼女は、和哉以外の人間とは話そうとせず、初めは千穂との間にも諍いが起こるのですが次第に打ち解けていき、よく話すようになり一緒に海に行ったり楽しく生きていくようになります。

 

しかし、入学から三か月を経たところで遥の病状は悪化し入院することになります。和哉と千穂には詳しい病状や余命のことは伝えられず、ただ「遥が何も言わずに自分たちの下から去って行った」という空虚な思いだけが、彼らを包みます。その後彼女は一度も登校することなく学校を退学し、さらに一か月後、彼女が病院で息を引き取ったことが担任の教師によって伝えられ、千穂はそこで初めて遥の病気・余命のことを知ることになります。

 

千穂は遥かの病気のことを何も知らずに彼女と接していたこと、彼女がきれいなままで自分たちの前から消えようとしたことを思って酷く悲しみ、和哉はどこか覚悟を決めていたような節があるもののふさぎ込んでしまい、その後二人は遥かとの思い出を振り返りつつ、彼女の死を乗り越えて普通の学園生活を取り戻し、将来的には結婚するところまで描かれています。和哉との子供を腹に宿した千穂が遥の墓前を訪れ、美少女としての遥の姿を思い浮かべ、感傷に浸るところで、第七話「エピローグ」が終わります。

 

 

エピローグの後にある「最終話」

ここまでは余命宣告系の感動ストーリーとして王道的な流れだと思うのですが、この漫画のえげつないところは、遥の死後の物語である「エピローグ」のあとに、病院で死を待ちながら静かに弱っていく生前の遥の、ガリガリに痩せて髪が全て抜けてしまった死人のような遥の姿を描いた最終話「夢で逢えたら」が70ページに渡ってずっしりと描かれているところなんです。

 

最終話では、遥の死の一か月前、彼女の容体を心配した和哉が強引に病院の場所を突き止め彼女の余命・病状を知り、病室に入って彼女の変わり果てた姿と対面する様子が描かれています。遥のことを長く思い続けていた和哉は、痩せて骸骨のようになってしまった遥のことをも受け入れて愛を伝えようとするのですが、「綺麗な女の子の姿を憶えていてほしい」と願う遥は、それを拒みます。和哉の気持ちをとてもうれしく思っていながらも、自分に囚われた人生を彼に送ってほしくないと思った遥は、必死に愛を伝えようとする和哉を頑なに拒み、二度と自分の前に現れるなと突き放し、それが遥と和哉の最後の時間となってしまいます。

 

そして最終話は、一人暗い病室に残された遥が和哉くんから口づけされた感触を思い出し少し微笑んだ後、病気が治って普通の人生に戻れる夢、和哉君とともに生き二人の子供を授かる幸せな夢を見るために眠りにつくところで、完結します。

 

彼女が夢の中で思い浮かべた和哉との幸せな未来の幻影は、遥の死後、10年後の未来に和哉と千穂が現実に歩む姿と遥が入れ替わっただけで全く同じであり、遥が生きていれば千穂ではなく彼女が和哉と幸せな人生を送っていたこと、彼女が確実にこの世からきてしまう事を示す、非常に辛い絵でした。

 

この最終話を読み終えたとき、なんて後味の悪い話なんだと、とても嫌な気持ちになりました。なんでこの漫画家さんはこんな嫌な話を作り、遥をひどい目に遭わせるのだろうと、長く悶々とした気持ちになったのですが、その感情が少し自分勝手なものであるようにも思えたのです。

 

 

後味という感情の無責任さ

これはあくまでも想像の話なんですが、たぶんこの漫画の最終話とエピローグの順番、遥の死の描写と、その後を生きる人間の話の順番が逆だったら、もっと後味が良くなっていたのではないかと思うのです。

 

ただ順番が入れ替わったというだけで、私の物語への印象は大きく変わっていたのではないか。死にゆくものが先を生きるものたちのことを思って一人悲しみを抱え死んでいく、そんな孤独な少女の強くて辛い死に方のおかげで、千穂は遥かのことを引きずることなく生きていくことができている。そんな流れでこの漫画が終わっていたなら、私は遥の死に様に美しさのようなものを感じていた可能性があるなと。


しかし、この漫画の中で独りの女の子が筆舌しがたい孤独を抱えて夭逝したという事実、遥の人生は病室で和哉と会った一か月後に終わってしまっているという事実は同じなのです。それなのに、描写の順番が暗い感情を残す形になっているというだけで、私は一人の少女の死に対して酷く不謹慎で、無責任な感情を抱いているように思えて仕方がないのです。

 

そしてこの漫画家さんも、余命宣告を受け自分の死に方を決めた一人の少女の人生を感動的に編集するでもなく、かといって露悪的になることもなく、少女の死に真摯に取り組んだ結果、最終話に遥の死を描いたのではないかと、私が勝手に思っています。特に遥の「弱っていく姿を見られたくない」「綺麗な美少女の姿を憶えていてほしい」という願いは、作中通してとても尊重されているように感じます。

 

 

この漫画の中盤は、遥のいない世界を生きる千穂と和哉の生活を描いているのですが、遥の余命の短さを読者の私が知っているだけに、残酷なほどの速さで月日が過ぎていきます。遥の孤独や死への恐怖、幸せな夢から覚めて涙する悲しみの世界からは完全に隔絶されていて、「遥のいない世界」として周囲の人間の感情が整理され、ひどく滑らかに動いてしまっているのです。

 

また千穂の目線から物語を読むと、遥の経験した暗い世界が、彼女の人生にはほとんど入ってきていません。

 

序盤の学園生活編においても、遥の余命のことを知らない千穂は、時に遥にとってとても残酷な言葉を投げかけています。可憐でか弱い美少女の遥のことを「遥のことみてたら色白で小柄なとこから、病弱で体弱いってとこまで羨ましくなる」とか言ったり、病状が悪化して髪が抜け落ちかかっている遥に「浴衣着てくるなら髪結えばいいのに」と言っていたり、千穂の言葉はあくまでも体の弱い美少女に対するものです。そんな千穂の無知も、遥の願いを尊重したうえでのことであってとても辛い。

 

この物語は遥の人生の物語であって、千穂と和哉のその後のエピローグは、彼女の人生にとっては忘れ形見のようなもので死の副産物でしかない。そもそもエピローグの時系列では彼女はすでにこの世におらず、その世界を生きることができません。あくまでもこの漫画は『女の子が死ぬ話』であって『女の子が死んだ話』ではない。エピローグに残された千穂と和哉の感動的な人生の結末はあくまでも遥の生き方に対する賛美として、本当の遥の最終話は、やはりこの漫画の最終話でよかったのではないかと、今では思っています。

 

初めて読んだときに「後味が悪い」と感じてしまったのは、自分にとって収まりの良い感動的な結末を期待していた、一人の少女の人生をコンテンツとして見ていた自分の浅はかさによるものだと、すこし自責の念のようなものを感じています。