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しろうのブログ

フィクションの話

『たそがれメモランダム』と『岸虎次郎短編集』と経験の共有に感じる限界の話

他人と経験・時間を共有するには、いろいろと限界があるなーと感じています。最近読んだ漫画を出しに、その辺のことを書きます。

 

『たそがれメモランダム』の経験と思い出

たそがれメモランダム 1 (ビッグコミックス)


月刊スピリッツに連載されている『たそがれメモランダム』は高校生の主人公が放課後にクラスメイトや知り合いと出会って、今まで見たことの無い彼らの世界を垣間見ちゃったりする漫画です。


そのなかに「小川さんの思い出」っていう話があるんですけど、それがすごい好きなんですよ。

 

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中学2年生の時同じクラスだった小川さんと主人公が、駅のホームで偶然会います。
主人公は小川さんについて「勉強ができて、読書が好きな、おとなしい子」というぼんやりとした印象を思い返しますが、一方小川さんは、主人公との経験をしっかりと覚えていて、思い出話に花が咲きます。

 

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小川さんはとても楽しげに、懐かしげに主人公との経験を思い返し、主人公はそれを少し不思議に思います。

 

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そして別れ際、主人公は小川さんが私服姿であることに気づき、塾でも行くのかと尋ねるのですが、そこで初めて彼女は小川さんの今を知ることとなります。

 

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小川さんが中学卒業後どんな経験をして、誰とどんな話をして、何を思って生きてきたのか、主人公には想像することしかできません。自分の知らないところで他人の人生は進んでいて、自分の知らない他人の人生については伝聞によってしか知ることができない。

 

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小川さんにとっての中学時代の思い出は、主人公の記憶と全く別の色のものになっていて、主人公は彼女との経験を軽視してしまっていたような気持ちになります。

 

中学のころの思い出を語る二人に明らかな温度差があったのは、小川さんにとって中学時代の経験がすべて懐かしい思い出となっている一方で、主人公にとっては少し前の記憶でしかなく、そこに思い出としての価値が生まれてなかったからで、彼女たちは再会するのが少し早かったのかもしれません。

 

自分が他人と共有した経験も、自分と相手とではその後に積み上げる経験が違っていて、思い入れにも温度差が、思い出の重さにも違いができてしまいます。自分と他人が別の人生を歩んでいる限り、完全に同価値な思い出を誰かと共有することなんてできないんだなぁと感じます。

 

 

 

岸虎次郎短編集』経験の類似と重複への恐怖

 

岸虎次郎作品集 冗談だよ、バカだな


岸虎次郎先生の短編集に「葦原」っていう話があって、太宰治好きな女子高生二人組が太宰治作品『斜陽』に出てくるワンシーン、茂みの中で立ったままおしっこするという、性的冒険をやらかす話です。

 

太宰治好きな英子が『斜陽』の件のシーンに言及したことにつけこみ、彼女に対して尋常ならざる感情を抱いている亜以子が、半ば強引に英子におしっこさせます。

 

その時の亜以子のセリフがすごい好きです。

 

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どれだけ仲のいい友人といえど、付き合う時間が長かろうとも、自分がその人と共有できる経験の多くは、同質のものを他の誰かとも経験できる汎的なものばかりで、唯一無二のクリエイティブな経験っていうのはほとんど無いように思えてしまう。

 

食事に行くとか、朝まで語り明かすとか、同じ団体に属して何かを成功させるとか、自分が友人と共有した経験は、きっとまた違う人とも経験することになるだろうし、友人もまた別のどこかで似たような経験をするのでしょう。

 

1人の人間はいくつかの知り合いグループ・チャンネルみたいなものを持っていて、それぞれに思い入れの違いはあれど、それぞれのチャンネルの中で似たような経験を繰り返していると思うんです。ベン図みたいに、自分の人生円を中心にいくつかの友人領域の円が重なっていて、自分の人生経験は複数の領域が重なったダブり領域ばかり、この領域でしか経験できなかったなってのがありません。


自分と友人が共有した経験の量が大きくても、素因数分解するととても単純で値の小さい素数に分解できてしまうような、そんな感じがします。ありがちな経験を多く積んだだけで、それほど特殊な思い出があるわけではなかったり、その一つ一つは他のだれかとも経験できるようなものであったりするのではと、そんな感じがしています。


それだけに、この「葦原」の亜以子のセリフがとても好きだし、それに対する英子のセリフがなんだか恐ろしく思えます。きっとこの子は将来、また違う誰かと太宰の話をするんだろうなぁっていう恐ろしさ。

 

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この時点で亜以子と英子はこの時間に対する、一つの経験に対する思い入れのようなものが違うというか、きっと将来思い出の重さにずれが出てくる気がして、ソワソワしてしまいます。

 

他人と完全に同質な思い出を共有することはきっとできないし、自分と友人だけの独自の経験というのも難しい。そうなると自分が求めるものは「自分以外誰も友達がいない友人」っていう、人間性の無いなんともフィクションな友人像になってしまって、この話も考えれば考えるほど不健康な方向に転んでしまいそうなので、この辺で止めて文章に押し固めて封じてしまおうと思います。