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フィクションの話

『エースをねらえ!』:お蝶夫人はものすごくいい人だ

 

エースをねらえ! 18 (マーガレットコミックス 485)

 

山本鈴美香エースをねらえ!』は、平凡なテニス部員だったヒロイン・岡ひろみが鬼コーチ・宗方仁にその才能を見出され、凄まじいシゴキを乗り越えて世界レベルのテニス選手へと成長していく熱血スポーツ漫画です。先輩部員からのいびりや過酷なシゴキ、試合のプレッシャー、テニスのために青春を犠牲にする哀愁、さらには大切な人との離別など数々の困難を乗り越えて、岡ひろみはわずかな期間に世界レベルにまで羽ばたいていきます。


岡ひろみは多くの人間に支えられて生きています。それは一人のスポーツ選手をサポートするって意味でも漫画的に見えるほど、過保護なほどにあらゆる人間に助けられて何とかテニスを続けていきます。宗方コーチに加えて、男子テニス部の先輩である藤堂・尾崎、女子テニス部の先輩で憧れの的である竜崎麗香、日本庭球理事会の理事長、オーストラリアで出会ったテニス青年、岡とダブルスを組むことになる世界ランカーなど、彼らは岡ひろみが精神的に低迷している時、技術的な悩みを抱えている時にすぐ駆けつけてくれる。常に岡ひろみの成長を第一に考え、また良き友として精神の支えとなって、彼女の心理状態が浮き沈みするのにやきもきしてくれる、非常に良い人間たちです。

 

その中でも「お蝶夫人」こと竜崎麗香というキャラクターは一際、岡ひろみの人生を誰よりも考え心配してくれている凄まじく良い人で、この漫画の中で一番好きなキャラクターなのです。

 

 

 

お蝶夫人」こと竜崎麗華というキャラクター

竜崎麗香は岡ひろみと同じ西高女子テニス部に属しており、超高校級の絶対的な強さ、いかなる時もフォームを崩さず蝶のように舞う姿から「お蝶夫人」と呼ばれている、アイドル的な選手です。コースわきからこそこそ覗いていたひろみに話しかけ、テニスの世界へと引き込んだ張本人でもあります。

 

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見るからに高飛車な感じのする見た目の彼女は物語序盤、冷徹で自尊心の高い、高圧的な先輩部員として描かれています。実力もないのに大会選手に抜擢されたひろみに対して辞退するように勧めたり、宗方コーチがひろみにつきっきり指導しているのを見て嫉妬したり、密かに好意を抱いている男子テニス部員・藤堂とひろみが仲良くしているのを見て嫉妬したり

 

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正直これだけ見ればごく普通の高校生の悩みで、それほど性格が悪い人間に見えないのですが、お蝶夫人の取り巻きの人間が彼女に褒められたいがためにひろみに嫌がらせをするようになって、まるでお蝶夫人が悪の親玉であるかのように映ります。

 

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お蝶夫人自体はひろみをいじめるようなことは一切していない、しかしそのように読めてしまう。これは作者さんがそう見えるようにわざと書いているのではないかなと思います。その後の話で分かってくるのですが、お蝶夫人はひろみのことを嫌っているわけでなく、その実ものすごく可愛がっているのです。しかもとんでもなく溺愛しているのです。

 

当初の描かれ方からは想像できない程に、お蝶夫人のやさしさは話を進めるにつれて深まっていき、その何とも人間臭い姿と、金髪縦ロールお嬢様な見た目との、私の中での先入観とのズレがすごく印象的で、お蝶夫人というキャラクターが、私は大好きなのです。

 

 

 

テニス選手「お蝶夫人」としての厳しさとやさしさの葛藤

ある時お蝶夫人は事故で手を負傷してしまい、自宅療養することになります。お蝶夫人の復帰を誰よりも願いうひろみはお蝶の下に花束を以てお見舞いをし、お蝶夫人はその行為に心の底から嬉しそうにします。自分を慕ってテニス部に入ってきたひろみを、彼女は妹のように可愛がっているのです。

 

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しかし藤堂と親しくしているひろみに女性的な嫉妬を抱き、宗方コーチからのマンツーマン指導を受け独占しているひろみにテニス選手としての嫉妬を抱き、その結果選手としてグングン成長し自分に迫ってくるひろみにライバル心を燃やし、ひろみに対する好意と敵意の逆方向の感情に引き裂かれ悩まされるようになります。

 

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ひろみが宗方コーチの下でテニス選手として成長する道を選ぶ以上、彼女はお蝶夫人という壁に確実にぶち当たります。お蝶夫人はテニス選手としてその挑戦を避けることはできず、確かな実力を持つ彼女はその度にひろみを打ち負かし、彼女を傷つけてしまいます。ひろみのことを愛らしく思うお蝶夫人は傷つくひろみを見て心を痛める、しかし負けるわけにはいかない。ひろみが何度も傷つく姿を見たくないお蝶夫人は、ひろみにテニス部を辞めることを勧めます。しかしひろみはそれを拒否しテニスを続ける、お蝶夫人はそのひろみの決意を見て覚悟を決めます。

 

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お蝶夫人はひろみのテニス選手としての成長を促すため、また自分の成長のためにもひろみに対して厳しくあろうと努めます。宗方コーチの命令でお蝶夫人とひろみがダブルスを組むことになった時も、お蝶夫人は彼女に進んで指導することはありません。あくまでも彼女を試合のパートナーとして捉え、自ら試合の厳しさに耐える強さを身につけさせようとします。

 

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しかし、試合が劣勢となりひろみが自身の力不足に打ちひしがれているのを見て、うっかりひろみに対する優しさが漏れてしまいます。

 

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そしてこの辺りからお蝶夫人はひろみの成長ぶり、彼女がいつか自分の領域に届く存在になることを認識し始めます。ひろみを突き放すことができない、厳しく徹することができないお蝶夫人は、ひろみに対する姿勢を変えます。

 

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お蝶夫人はひろみの先を行く指針、彼女の成長を導く存在として、また超えるべきライバルであり憧れであり続けることを選びます。その道は一見とても先輩らしくかっこいいのですが、お蝶夫人本人としては指導してくれるコーチもいない、後から来る後輩には絶対に負けられない、思い人の藤堂もひろみに奪われ、周りに残るのは自分のことを理解しない取巻きばかり、とても悲しい世界です。

 

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ひろみを選手としてライバルとして捉えることで、妹のように可愛い存在として触れ合うことはできなくなる、お蝶夫人の世界はひろみのために少し閉じてしまいます。いつの間にか自分と張り合うようになったひろみに対して、気を許すのも難しくなり対抗意識が芽生えます。

 

 

テニス選手の先輩後輩から、姉妹のようなやさしさへ

そしてついに、お蝶夫人とひろみが正面から真剣勝負する機会が訪れます。全日本ジュニア強化選手の選抜大会で、ひろみとお蝶夫人がぶつかります。その時点でひろみの実力派到底お蝶夫人に及ばぬレベルで、ひろみは勝ち負け関係なく全力で戦う決意で挑みます。一方でお蝶夫人は、間もなく高校を卒業しひろみと離ればなれになることを考え、自分のテニス技術の全てをひろみに伝える試合をします。

 

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彼女の成長に少しでも役立てばと、不自然なほどに多彩な技術を見せつけ、そのうえでひろみを完全に下します。それは自分が強化選手になるための試合ではなく、明らかにひろみの成長を願った戦いであり、この試合を機にお蝶夫人とひろみの関係はテニス選手としてのライバル関係から解放され、先輩後輩の関係、ひいては親しい友人の関係へと移行していきます。いつしかお蝶夫人はひろみの精神面を支える友人になっていくのです。

 

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そこにかつてのようなライバル心や嫉妬の心はなく、ひろみを可愛がる精神ばかりが溢れています。

 

高校を卒業し大学生となったお蝶夫人はあまりテニスをする姿が描かれません。あくまでもひろみの人生をサポートするキャラとして登場し、お蝶夫人のテニス選手としての色はしばらく鳴りを潜めるようになります。ことあるごとに母校のテニスコートを訪れひろみの練習に付き合い、試合にも必ず観戦に来ます。しかしテニス選手としてのお蝶夫人の魅力は、序盤ほど輝かしく描かれることが無くなります。逆にひろみを気遣うお姉さん的愛情ばかりが目立つようになります。

 

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コーチと藤堂という二人の魅力的な男性からの種類の異なる愛情を受け、選手として愛されるか女性として愛されるか、いつかどちらも選べず苦しむことになるであろうひろみを、心から心配するお蝶夫人

 

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大学に行ってからもお蝶夫人はテニスを続けているのですが、いつの間にかひろみとの実力に差が開き、ひろみは世界レベルの試合にいくつも参戦するようになり、テニスのメインはひろみへ、お蝶夫人はひろみの憧れの先輩として描かれるようになります。かつてはライバルとして心からひろみを可愛がることができずにいたお蝶夫人の愛情が、テニスの優劣という制約を取り払うことで堰を切ったように溢れ出てくるのです。

 

 

 姉から母のように深遠なやさしさへ

しばらくするとひろみの実力が認められるようになり、とある世界ランカーからダブルスのペアを組まないかと、ひろみの下に名誉あるオファーが届きます。当然ひろみは喜びますが、お蝶夫人は深い悲しみにくれます。

 

かつてお蝶夫人はひろみとダブルスを組んで高校テニスで優勝した経験があります。また、お蝶夫人は自分のプレイを理解しダブルスを組める人間はひろみしかいないと思っていて、ひろみが高校を卒業し再びダブルスを組むことを待ち望んでいました。しかしひろみの実力はお蝶夫人の予想とは裏腹に世界レベルにまで成長しており、ひろみの成長を願うお蝶夫人には、ひろみと世界ランカーのダブルス結成を阻止することができません。自分の進むテニス人生が、ひろみのそれと二度と交わることがないと悟ったお蝶夫人は酷く悲しみ、一度は日本ジュニア強化選手を辞退しようとすらします。

 

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周囲からの言葉を受け冷静を取り戻したお蝶夫人は、テニス選手としても、友人としても、ひろみをサポートする役に回ることを心に決めます。ひろみとダブルスを組む世界ランカーを日本に招き、ひろみの試合を観戦させたり、彼女のコンディションを逐一手紙にして世界ランカーに連絡したり、ひろみの新たなパートナーとの関係をサポートする、涙ぐましい努力をひそかにするようになります。

 

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自身の中にかつて存在したライバル心も、嫉妬も、そしてダブルスを組めなかった悔しさもすべて呑みこんで、ひろみの将来のために身をささげるようになるのです。この後のお蝶夫人はひろみのことだけを考え悩み行動する、ひろみの姉のような存在へと変わっていきます。試合とあらば駆けつけ全力で応援します。

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世界的実力者相手に善戦するひろみ、遂には勝利を挙げてしまうひろみに喜びを隠せない様子も本当にいい人です。

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ひろみの精神的支柱であった宗方コーチが病死した時も、彼女はひろみのことを第一に考え、彼女のために今後何ができるかを考えます。

 

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そして私が一番好きなシーンなんですが、新しいダブルスパートナーと上手くやっていけるか自信が持てないひろみに対して、お蝶夫人は電話を入れるシーン。

 

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自分の中の悲しみを一切表に出さず、あくまでもひろみの憧れの存在「お蝶夫人」として彼女の不安を和らげる優しい言葉を投げかけます。自分がひろみのパートナーとしての力を備えていないこと、しかし「お蝶夫人」としての自分の言葉がひろみの心に安らぎを与えることを認識したうえで、お蝶夫人は電話をかけるのです。

 

ひろみが新しいダブルスパートナーとの試合で初めての勝利を挙げた時、お蝶夫人は涙を流して喜びます。ひろみが精神的に悩み苦しんでる時にふと現れ、彼女の悩みを洗い流しに来てくれます。

 

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そしてお蝶夫人は、テニス選手として明らかに自分を越えてしまったひろみの、未来の幸福を願い、自ら果たせなかった夢を託します。

 

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ここでお蝶夫人とひろみの、テニス選手としての関係が終息し、ひろみは遥か世界への道を進んでいくこととなります。物語の終盤には、ウィンブルドンの出場選手候補にひろみとお蝶夫人が選ばれるのですが、お蝶夫人は肉離れを起こしてしまい欠場、終ぞ決着をつけることなくひろみはウィンブルドンへ、『エースをねらえ!』は完結します。

 

お蝶夫人とひろみの実力は、ひろみが世界選手権に出るようになってから逆転してしまっているように思えますが、試合での勝敗はお蝶夫人がひろみを下した高校時代の成績が最後で、彼女たちのテニスの優劣がどうなったのか、明示されません。

 

物語的にはヒロインのひろみが最後の最後で最愛最強のライバルと決着をつけて世界へ羽ばたく、というのが綺麗な流れだと思います。しかし、私はひろみとお蝶夫人はテニスで決着をつける必要はなかったのではないかと思います。ひろみとお蝶夫人はいつまでも良き先輩後輩であり、ひろみにとってお蝶は憧れの存在のまま、お蝶にとってひろみは可愛い妹のような後輩のまま、二人の関係に技術的優劣の定義づけは必要ないというか、なんだか下世話に思えたのです。

 

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エースをねらえ!』読む前の印象では、このお蝶夫人ってやつはお金持ちの令嬢で、金髪縦ロールで、テニス部の実力者、よっぽど高飛車でヒロインを目の敵にする嫌なキャラクターなのかと思ってました。が、読んでみればその真逆もいいとこでした。人間的な嫉妬心や悔しさを乗り越えて、母親のような姉のような深い愛情でヒロインを陰から支える、優しさの塊のようなキャラクターだった。何が言いたいかって『エースをねらえ!』の魅力はスポ根的熱血要素や、あしたのジョー的叩き上げ感もあるんですが、それ以上にお蝶夫人というキャラクターの人間的な葛藤、それを乗り越えた深い愛情にあると思ったのです。